概要
■宗派
曹洞宗
■本山
永平寺(福井県)
總持寺(横浜市)
※曹洞宗は総本山ではなく両大本山です。
■山号
施無畏山(せむいさん)
※文久元年(1861年)に普門山より改められました。
■開山
白峰玄滴大和尚(加賀大乗寺二十五世)
■創建
養和元年(1181年)
■開創年代
慶安元年(1648年)
■ご本尊
十一面千手観音立像
曹洞宗
■本山
永平寺(福井県)
總持寺(横浜市)
※曹洞宗は総本山ではなく両大本山です。
■山号
施無畏山(せむいさん)
※文久元年(1861年)に普門山より改められました。
■開山
白峰玄滴大和尚(加賀大乗寺二十五世)
■創建
養和元年(1181年)
■開創年代
慶安元年(1648年)
■ご本尊
十一面千手観音立像
由来
■創立について
春日村中山(現在の揖斐川町春日中山)の観音寺は、養和元年(1181年)に天台宗の寺院として創立され、萬年山元正庵と称された。当時寺院が位置していた場所は、現在と比べると約200メートル上方で、現在も寺の跡地である名残を見つけられる。その後、弘安年間(1278年~1287年)に現在地である東側(通称兵太夫屋敷)へ移転したが、慶長元年(1596年)に天台宗から離脱したことをきっかけに無住となった。
廃寺同様の状態が続いていた、慶長5年(1600年)9月。関ケ原の戦いで敗れて逃れた西軍の将小西行長公が、当寺に隠れた。しかしその状態も長くは続かず、不破郡垂井町岩手の城主、竹中丹後守重門公により捕らえられてしまう。その後小西行長公の供養のため、春日美束市瀬より、千手観音・大日如来・釈迦如来の三尊仏を譲り受け、寺院内に安置することに。それは翌年の慶長6年(1601年)のことであった。
■寺の復興について
寛永12年(1635年)、幕府の命により戸田氏鉄公が尼崎から大垣へ国替えとなった。この戸田氏鉄公には娘がおり、その一人の名前は北ノ丸おさい様(栄春院)といった。おさいは様は下野の国宇都宮城主である本田正勝公の正室だったが、同城にて発生した『宇都宮城釣天井事件』により本田正勝公と絶縁し、大垣へ戻っていたのである。当時の体調は芳しくなく、原因不明の眼病に苦しまれていたという。そんなある晩、おさい様は夢のなかで「粕川谷中山の観音様を信仰しなさい」というお告げを受けた。早速、兄の氏信公に手を引かれ、何度かお参りすることに。すると、原因がわからなかった眼病はすっかり回復した。
このことをきっかけに、氏信公は荒れたままの寺の復興を計った。寺を『禅宗 観音寺』と改め、加賀『大乗寺』の和尚である二十五世白峰玄滴和尚を拝請し、開山第一世と位置づけ。寺紋は戸田家の九曜の紋と定め、永代無年貢として再興した。これは慶安元年(1648年)のことである。しかし、中山の土地は道遠く山深いため、お参りするには難が多かった。そこでおさい様(栄春院殿仏性壽心大姉)は、万治3年(1660年)12月に、安八郡北一色村の土地に『栄春院』を創建。当寺の千手観音様を本尊として熱望したため栄春院に移し、同年12月6日、観音寺には別の観音様を造立して安置することとなった。そのとき造立した観音様が、現在安置している十一面千手観音様である。
ここで、少し時を遡る。慶長5年(1600年)に、荒れ寺にて捕らえられた小西行長公は、「匿ってくれていたはずの村人に騙された」と中山の人々を恨んでいた。岩手城に連れて行かれる道中では、「あの村(中山)を三度焼き払わずにおくものぞ」と睨んだとされている。小西行長公の言葉どおり、村では三度ほど火災が起こった。特に享保18年(1733年)の火災では村中が焼け落ち、寺も焼失。ただ大火での村人の懸命な努力により、奇跡的に三尊仏だけは難を逃れた。その後、大垣藩五代藩主である戸田氏長公により、用材の払い下げを受け、現在の場所にて寺院が再興したのである。
■大祭の起こりについて
度々起こる災難を、村は「小西様の祟り」として恐れた。そこで、宝暦4年(1754年)2月29日に観音寺において『行長公の大会葬』を執り行う。行長公が置いていった小刀を埋めた場所を墓地として、寺には小西行長公(泰珠院殿東岸道西大禅定門)の位牌を安置し、供養を続けた。しかし災難は収まらず、万延元年(1860年)には寺の屋根裏での出火によって寺院が再び焼失。大垣藩十代藩主戸田氏彬公より再建費三百両の下附を受け、再興された。このとき建てられたのが、現在の本堂である。本堂西側にある杉の木の数本には裂け目が残っており、万延元年に発生した大火の凄まじさの痕跡を感じられる。
のちの大正12年(1923年)、岩手村(現在の垂井町)へ御嶽教徒である高木金十郎氏が当寺へ訪れた。そして「最近、私の所に行長公の霊が現れた。行長公は、仏として扱われるのは不快だと言っている。今後は神としてお祀りされる方がよいだろう」と話す。事実、行長公は熱心なキリシタン大名であった。高木金十郎氏の言葉により、当寺では行長公の墓地に社を建てた。神社名を『小西神社』として、毎年2月29日(28日)には大祭を行っている。
ちなみに、大正12年(1923年)の12月には、北一色にある『栄春院』が全焼した。当寺より移られた観音様も、その出火により焼失。このとき、東の空より火の玉が現れ、観音寺本堂へ吸い込まれたと言い伝えられている。
春日村中山(現在の揖斐川町春日中山)の観音寺は、養和元年(1181年)に天台宗の寺院として創立され、萬年山元正庵と称された。当時寺院が位置していた場所は、現在と比べると約200メートル上方で、現在も寺の跡地である名残を見つけられる。その後、弘安年間(1278年~1287年)に現在地である東側(通称兵太夫屋敷)へ移転したが、慶長元年(1596年)に天台宗から離脱したことをきっかけに無住となった。
廃寺同様の状態が続いていた、慶長5年(1600年)9月。関ケ原の戦いで敗れて逃れた西軍の将小西行長公が、当寺に隠れた。しかしその状態も長くは続かず、不破郡垂井町岩手の城主、竹中丹後守重門公により捕らえられてしまう。その後小西行長公の供養のため、春日美束市瀬より、千手観音・大日如来・釈迦如来の三尊仏を譲り受け、寺院内に安置することに。それは翌年の慶長6年(1601年)のことであった。
■寺の復興について
寛永12年(1635年)、幕府の命により戸田氏鉄公が尼崎から大垣へ国替えとなった。この戸田氏鉄公には娘がおり、その一人の名前は北ノ丸おさい様(栄春院)といった。おさいは様は下野の国宇都宮城主である本田正勝公の正室だったが、同城にて発生した『宇都宮城釣天井事件』により本田正勝公と絶縁し、大垣へ戻っていたのである。当時の体調は芳しくなく、原因不明の眼病に苦しまれていたという。そんなある晩、おさい様は夢のなかで「粕川谷中山の観音様を信仰しなさい」というお告げを受けた。早速、兄の氏信公に手を引かれ、何度かお参りすることに。すると、原因がわからなかった眼病はすっかり回復した。
このことをきっかけに、氏信公は荒れたままの寺の復興を計った。寺を『禅宗 観音寺』と改め、加賀『大乗寺』の和尚である二十五世白峰玄滴和尚を拝請し、開山第一世と位置づけ。寺紋は戸田家の九曜の紋と定め、永代無年貢として再興した。これは慶安元年(1648年)のことである。しかし、中山の土地は道遠く山深いため、お参りするには難が多かった。そこでおさい様(栄春院殿仏性壽心大姉)は、万治3年(1660年)12月に、安八郡北一色村の土地に『栄春院』を創建。当寺の千手観音様を本尊として熱望したため栄春院に移し、同年12月6日、観音寺には別の観音様を造立して安置することとなった。そのとき造立した観音様が、現在安置している十一面千手観音様である。
ここで、少し時を遡る。慶長5年(1600年)に、荒れ寺にて捕らえられた小西行長公は、「匿ってくれていたはずの村人に騙された」と中山の人々を恨んでいた。岩手城に連れて行かれる道中では、「あの村(中山)を三度焼き払わずにおくものぞ」と睨んだとされている。小西行長公の言葉どおり、村では三度ほど火災が起こった。特に享保18年(1733年)の火災では村中が焼け落ち、寺も焼失。ただ大火での村人の懸命な努力により、奇跡的に三尊仏だけは難を逃れた。その後、大垣藩五代藩主である戸田氏長公により、用材の払い下げを受け、現在の場所にて寺院が再興したのである。
■大祭の起こりについて
度々起こる災難を、村は「小西様の祟り」として恐れた。そこで、宝暦4年(1754年)2月29日に観音寺において『行長公の大会葬』を執り行う。行長公が置いていった小刀を埋めた場所を墓地として、寺には小西行長公(泰珠院殿東岸道西大禅定門)の位牌を安置し、供養を続けた。しかし災難は収まらず、万延元年(1860年)には寺の屋根裏での出火によって寺院が再び焼失。大垣藩十代藩主戸田氏彬公より再建費三百両の下附を受け、再興された。このとき建てられたのが、現在の本堂である。本堂西側にある杉の木の数本には裂け目が残っており、万延元年に発生した大火の凄まじさの痕跡を感じられる。
のちの大正12年(1923年)、岩手村(現在の垂井町)へ御嶽教徒である高木金十郎氏が当寺へ訪れた。そして「最近、私の所に行長公の霊が現れた。行長公は、仏として扱われるのは不快だと言っている。今後は神としてお祀りされる方がよいだろう」と話す。事実、行長公は熱心なキリシタン大名であった。高木金十郎氏の言葉により、当寺では行長公の墓地に社を建てた。神社名を『小西神社』として、毎年2月29日(28日)には大祭を行っている。
ちなみに、大正12年(1923年)の12月には、北一色にある『栄春院』が全焼した。当寺より移られた観音様も、その出火により焼失。このとき、東の空より火の玉が現れ、観音寺本堂へ吸い込まれたと言い伝えられている。